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伊勢信仰御師の御先祖様 REV. KANAWA'S ISE SHINTO CLERGY ON-SHI ANCESTRY

家系図調査の専門家による本格調査により、杜司の金輪姓は鎌倉・室町時代以降〈伊勢信仰の御師 (神職)〉であったことが、解明されました。
 

約5万種もの名字の出自を詳述した文献『 姓氏家系大辞典』によると、金輪姓は「伊勢の名族にして、安東郡専当沙汰文に 『 丁部金輪乙石四郎、丁部金輪閇王六郎、同秋太郎、同憐太郎」等を載せたり 』 」とあります。「安東郡専当沙汰文」は伊勢神宮の外宮祠官度会盛光が編述したもので、元徳元年(1329)の安東郡内御田の耕営・収穫の管理などを記録したものです。丁部とは御田 (神田) の耕作者のことで、伊勢中部の安東郡(安濃郡)に住んでいた御先祖様は、伊勢神宮の強い影響下にありました。

安濃津の湊(津市)は伊勢の主要港で、この湊から船に乗った伊勢神宮の御師が、多摩川付近で盛んに活動していることが知られています。
御先祖様は多摩川沿いの高畑村 (現・大田区仲六郷3~4丁目・西六郷3~4丁目のあたり) に移住し、神明宮 (天祖神社) を建立したと思われます。

何百年とこの地で暮らす中で、御師の活動を継続しつつ田畑を営む指導的立場の上層農家を兼務し、治安の悪かった室町時代には武士化した先祖も経て、高祖父の父の代が天領にて梨栽培を開始。村会議員として地域を纏める立場でもありつつ、神事を継続していったものと思われます。
高畑村が時代を経て農業から工業へと移り変わっていく中で天祖神社は役目を終えたのか、その後は第六天神社へと姿を変え、現在はかろうじてその小さな外宮 (そとみや) が、従叔父の邸内で公に残されていることが分かりました。元々このお宮は現・高畑小学校に鎮座していたとのことで、大きな境内を有していたようです。

上記の調査報告により、國學院大學や神社本庁の前身・皇典講究所が設立される遥か昔の室町時代から、杜司の御先祖様は神職・社家であったという事が判明いたしました。

この史実が近代になり断絶され、知らされていなかった中において、日米を行き来しながら杜司が自力で神職と成り、国境を越えて神明奉仕に勤むに至りましたこと、知らず知らずのうちに御先祖様の延長線上の人生を生きていたようです。私の代で本来の御役目に立ち返るよう、神議りにより強く導かれたように思います。筆舌し難い程に奇しく妙なる御神示を、実感する次第でございます。




【伊勢信仰の御師 (おんし) とは】
鎌倉時代から室町時代初期にかけ発展した〈伊勢神宮に所属し、参詣者に祈祷・案内に勤しみ、参拝・宿泊などの世話をした神職〉のこと。江戸時代には百姓と神職の中間身分とされ、(経済の安定により)庶民の間で寺社詣りが信仰と遊興の側面を併せ持つように成って行く中で、御師制度が発達。全国に檀那を持つまでに。

伊勢御師は全国各地に派遣され、現地で神明宮 (後に天祖神社) を建立。伊勢講の世話を行い、崇敬者が伊勢参りに訪れた際には自己の宿坊で迎え入れ、物事が何事もなく上手に運ぶよう取り計らった。同様のことが中世から近世にかけて各地で行われ、御師の間で師職(御師の職) や檀那の相続・譲渡・売買が盛んになり、勢力の強い御師の元に檀那や祈祷料などが集まった。

明治に入り政府主導の神祇制度が整備された為、御師は急速に衰退。明治2年 (1869年)、神職の葬儀は神葬祭に改めるよう政府が命じる中で、御師は百姓が兼帯しているもので正規の神職では無いという位置づけで、神葬祭を行う事が禁じられた。御師側は抗議したものの、明治4年 (1871年) 7月には御師職が廃止されてしまい、多くの御師は平民に編入された。その後、百姓や宿屋経営などに転じていくこととなった。


【神明宮・天祖神社】
多摩川沿いに移住した金輪の御師先祖が、当時の高畑村で建立した神明宮 (天祖神社)は日本各地にあり、伊勢神宮内宮を元宮とする神社です。主祭神は天照大御神様。農耕儀礼と密接に結びつき、広く信仰を集めました。
神事は伊勢神宮と大方同じで、神使も鶏。鳥居は主に神明鳥居で、建築様式は神明造であることが多い。明治時代まで「神明宮」という名称でしたが、伊勢神宮と重なる「宮」の使用を控え、後に「天祖神社」や「神明社」などへと名称が変更されました。

平安時代中期に入り、朝廷が衰微し荘園制が成立すると、伊勢神宮を支えた神税などの経済基盤が不安定となった為、伊勢神宮の神職らが御師となり、武士団などの荘園の在地領主層に神宮への祈願を取り次いだり、神宮の神威を説くなどの働きかけを行なったことで、在地領主による神領(神社の領地)(御厨)の寄進が行われました。その結果、寄進された土地に伊勢神宮の祭神が勧請されるようになり、神領を中心に天祖神社が分布することとなりました。

 

中世後期には御師の檀那が上級武士層から更に広範囲へと広がり、伊勢信仰は庶民層にも広がりました。神領ではない地域にも勧請される事例が増え、天祖神社は更なる広範囲へと分布。近世に入ると信仰は更に盛んになり、全国的に中小農民も含む広い階層に及ぶように。天照大御神が太陽神であることや、伊勢御師が檀那に(農業と関連が深い) 神宮暦を配ったこともあって、国家鎮守と同時に農業神としても信仰されるようになり、新田開発の際にその土地の鎮守の神として勧請されることが増え、天祖神社はさらに増加していきました。


【天祖神社から第六天神社へ】
多摩川沿いに移住し、先祖代々暮らしてきた何百年という時を経て、金輪の先祖が建立した天祖神社は変貌を遂げ、江戸時代のどこかで第六天神社が建立されたようです。現に大田区周辺では、天祖神社の境内で第六天神社が摂社・末社になっている例が幾つもあります。昭和に曾祖父が「再建」していますので、初代建立は〈第六天神社が絶大な信仰を集めた江戸時代〉かと思われます。

第六天神社は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建され、旧武蔵国を中心に旧相模国、旧伊豆国などの周辺に存在します。明治時代の神仏分離令・神社合祀の流れで、御祭神が神世七代の第六代オモダル・アヤカシコネ(面足命・惶根命)へとすり替えられ、今となっては半ば忘れ去られてしまっている神様です。現に当先祖の第六天神社は、現在かろうじて子孫の敷地を公に開放した外宮 (そとみや) として残っており、Googleマップ上では「神社」と表示されるにとどまっています。

周囲の天祖神社も正確な建立時代が不明な所が多く、めくるめく時代の流れから、現在残っている記録・文献・建造物が如何に貴重か、また現存のものからだけでは計り知れない、とてつもない歴史があることを、しみじみと実感致します。


【天領】
江戸幕府が直接支配していた領地。一般に、幕府直轄領。天朝御料と称したことに由来すると思われ、語源は地といわれています。

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According to the long term deep research by the professional family history researcher, the origin of Rev. Kanawa's ancestor was the illustrious family in Ise, and On-shi Shintō clergy of Ise Shintō/Ise Grand Shrine in Kamakura/Muromachi period (1185~1333/1336 ~1573), based on the literature "Antōgun-sentō-satabumi" (recorded in1329 by the Ise Shintō clergy).

This remarkable discovery reveals that her ancestors have been Shintō clergies approximately 550 years before today's Jinja-honchō (association of Shintō shrines), its predecessor organization Kouten-kōkyūjo(1882~), and Shintō universities were established.

On-shi was a type of Shintō clergy who traveled throughout Japan and settled in far regions to spread Ise Shintō. Based on the historical record, they were quite active along Tamagawa river where they traveled by ship from the major Anoutsu harbor in Ise, one of the largest three wharfs in Japan back then. Her ancestors must have traveled by ship as well, settled in Takahata village along the Tamagawa river (today's Nakarokugō 3-4 / Nishi-rokugō 3-4 in Ōta district, Tokyo), then built a Shinmei-gū shrine (later, Tenso-jinja) which enshrined a divided tutelary deity from Ise-jingu.

Among living in the village for a couple hundreds years, her On-shi ancestors continued Shintō ceremonies/rituals while being a leader of rice farmers. Some turned into Samurai warriors during the unsafe battling period to protect the shrine. Later, her great-great-great grandfather began the Japanese pear agriculture in assigned Ten'ryo, the Shogunate demesne. Yet he must have continued Shintō ceremonies, as his son (Rev. Kanawa's great-great grandfather) who inherited pear agriculture and was also a village councilor, owned an entire set of Shintō ceremonial equipment, according to her father without not knowing why. Now she was able to figure out why he owned everything capable to conduct the ceremonies.  

Throughout living in this village for hundreds of years, Shinmei-gū/Tenso-jinja seemed to have shifted to Dairokuten-jinja probably during Edo period. Shinmei-gū/Tenso-jinja must have come to the end of its role, as the livelihood in Takahata region shifted from agriculture to manufacturing industry. Its inheritance, a small outdoor public shrine barely still exists today, at the corner of the property of my great uncle's son. This shrine was originally located in Takahata elementary school of today, in a large property, which tells that the shrine was quite large originally.

Without knowing the historical record above, it is remarkably mystical that Rev. Kanawa naturally followed the various divine messages from time to time in her life, crossed the international border, settled on the other side of the Earth from Japan, cultivated her noble path to become a Shintō/Ko-Shintō priestess, and has been spreading Shintō/Ko-Shintō spirituality ever since, as her reverent deed. After all, she was unknowingly living in the extended version of her On-shi ancestors. Now she confirms that her ancestors and Kami have been guiding her spiritually, always.

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